釈迦の瞑想法・実践の自分メモ

瞑想、実践編です。

瞑想の基本”サティ(気づき)”とはいったい何か

3.自分につよくなる

  理想のあなたをあなた自身がつくる

   ●サティ瞑想法 より

思ったことは必ず相手に伝わる波動の法則

p.26
心のエネルギーは巨大だということです。
肉体としての人間の身体はいくら大きくても2メートルくらいですが、精神的な身体は非常に大きいのです。

p.28
心に関することは科学の分野ではまだ研究し尽くされていませんから、いまのところ、心の問題はやはり宗教で扱わなければなりません。

サティができると世の中違ってみえてくる

p.30
心から出す波動にはいろいろな種類があります。
仏教には心所(しんしょ)という心のなかにある働きを意味する語があります。

p.31
心所には、いい働きをする善心所、悪い働きをする不善心所、良くも悪くもない基本的な働きをする心所の3種類があります。

自分の心さえ自由にできないあなた

p.39
瞑想は、心のなかにいいエネルギーを強く育てることが大きな目的の一つです。
そこが重要な部分です。

サティだけが心を正しく育てていく

p.41
25種類ある善心所のなかでも、一番大切な善芯所について説明します。

p.42
それは智慧(パンニャ)という心所です。

p.42
智慧というのは知識ではなく、まったく違う心の波動で、すべてのなかで一番力強いのがこの働きです。

p.42
これを拡げたらすべてを知ることができるということから、仏教では「一切智」と言って尊びます。

p.42
何を見ても何を聞いても、その構造がすぐに分かる力。

p.42
ヴィパッサナー瞑想はこの智慧の力を成長させようとするもので、「サティの瞑想」と表現しています。
サティとは「念」という漢字を当てていますが、理解しやすいように言葉を変えれば「気づき」という事になります。
どんな現象、どんな心の動きにも気がつくということ。

p.44
ヴィパッサナー瞑想は、その気づきという働きをどんどん精密に、細かく認識できるように広げていくのです。

p.44
その結果として、自分の心の働きのすべてを知ることととなります。

p.45
自分の心をきちんと気づくことができればできるほど、心のなかの善心所は成長していきます。
善心所が成長すればするほど不善心所は消えていく ー そういう仕組みになっているのです。
この不善心所がぜんぶ消えた状態を、悟りというのです。

p.45
悟りに至ればおのずと智慧が生まれるからです。

サティ以外心を癒す方法はありません

p.48
ヴィパッサナー瞑想はただ漠然とやる瞑想ではなく、きちんとした理論のある瞑想だということをお話ししたかっただけですから。
ヴィパッサナー瞑想は、迷信のような訳のわからないものではなく、具体的で明確な教えなのです。

p.49
お釈迦さまは、ご自分の教えが宗教だということはいっさい仰っていません。

「教え」という言葉を使っておられますが、仏教は宗教というよりも、いろいろ世の中に在る理論的な教えのひとつというように解釈したほうが理解が早いと思います。

その教えの内容は極めて明快、理路整然としています。

p.49(善心所のひとつである)施とは与えるという意味ですが、単にものを誰かにあげるという意味ではなくて、心にそういう波動をつくることです。

p.50
そういうエネルギーをどうやってつくればいいのでしょうか?
やはり具体的に何かをあげるのがいい方法です。


自分の持っているものを皆と分かちあおうという気持ち、自分だけのものではないという気持ちが施です。
自分のものを自分だけのものだとおもわないことです。
そういうケチな気持ちは心を小さくする悪しきエネルギーです。


皆で使いましょうという気持ちで行動していると、どんどん施しの力が生まれてきます。そのように善心所を実践する方法はたくさんあります。

p.52
元気で心から清らかな波動を出して生きていると、自分で好むと好まざるにかかわらず人から好かれて、人とつながって、どこまでも拡がっていくことになります。

”サティ(気づき)”が上手くできると不安が消える

不安がどれほど心を傷つけているか

p.60
何にも頼らないつよい心をつくることが、仏教でいう解脱なのです。

p.64
お釈迦さまは、頭を洗って世界を新しい目で見てください、ありのままを見てください、頼ることができないものに頼ってはいけません、執着してはいけませんと仰っているのです。

p.65
ものに頼ることをやめて、ものから離れることを学ばなくてはいけません。

もっと自由に生きられるのに

p.70
お釈迦さまの教えは、私たちの心を清らかにする方法です。
心が清らかになって心が強くなれば、すべての問題の解決方法が見つかるという教えです。

p.75
ではどうすれば心を洗うことができるのでしょうか。

心をきれいにするためには、まず心はどういうふうにして穢れるのかを知らなければなりません。

いったいなぜ心は穢れるのでしょうか。

実は心は心自身の働きによって穢されているのです。

具体的には、目で何かを見たとき、耳で何かを聞いたとき、鼻で何かのにおいを嗅いだ時、舌で食事を味わっているとき、身体が何かに触れたとき、そして何かをおもったり考えたりしているときに、心は穢れてしまうのです。

つまり、眼耳鼻舌身意という仏教の言葉がありますが、その六つの感覚を媒介として心は穢れているのです。

水だけ飲んでも喉の渇きは消えない

p.76
そこで仏教では、心が穢れないように、心に安全弁ともいうべきバルブをかけておきましょうというのです。

その安全バルブをかける方法が、ヴィパッサナー瞑想法です。

具体的にはサティ(気づき)をはたらかせること、自分の状態に気がつくことです。

何かを見ていること、それ自体はいいのです。
問題となるのは、見ることによって心が穢されることが起こるというときです。
心が穢されないようにするためには、ちょっとしたバルブをかけておく必要があるのです。それがサティです。

サティは、英語ではawareness(アウエアーネス)あるいはmindfulness(マインドフルネス)と言いますが、日本では「気づくこと」と訳します。

自分に気がつくことは、先ほどの眼耳鼻舌身意という六つのチャンネルからの情報によって、心が穢れないようにバルブをかけておく方法です。
心を穢すような情報を、心に入れないようにすればいいのです。

気がつくということはそれほど大きな効果があるのです。

そこでどうやってきちんと気づくことができるかという方法を、ヴィパッサナー瞑想法では徹底的に考えようとしているのです。

知識を捨てると知恵が生まれる

落ち着いて心をコントロールして、きちんと情報を整理してみてください。
これは目から入った情報、これは体から入った情報、と、きちんと知っておいてください。
それだけで心はきちんと統一されて浄化されて力強くなります。
その結果、人間の創造を絶する力を発揮するようになってきます。

サティのできない人は集中力が衰退する

問題は私たちには受け取る情報をきちんとコントロールする能力に欠けているということなのです。
我々は頭の中に、ただ勝手に情報が入るにまかせているだけです。
つまりだれもきちんと生きていないということです。
ただ、ばかみたいにそこにいるだけなのですよ。

ですからお釈迦さまは私たちの状態をおもしろい言い方で表しておられます。
「あなた方はみな死んでいるのです」と仰って、
「サティを実践している人だけが不死です」とも付け加えているのです。

「悪いことは忘れよう」でいいのですか

お釈迦さまの遺された偈文(げもん)の中に、アッパマーダ(Appamada)という大変重要なパーリ語の言葉が使われています。

「はっきり物ごとを知っている状態、サティがあること」という意味です。

この「アッパマーダ=気づきのある状態」という言葉はぜひ覚えておいてください。
お釈迦さまはサティの実践をとても大切に考えておられたのです。

ですから古いお経を見ると、どれを見てもサティの実践方法が書いてあります。
日本には残念ながらこのサティの実践、気づきの実践ということがあまり伝えられていないようです。

サティする、気づくという事は、たとえば何かを見て、私はバラを見ている、モネの絵を見ている、などと思う事ではないのです。
そうではなくて、ただ「見ている」ということに気づくことなのです。

何かを聞いているときも、これは演歌だ、猫の声だ、とかいうことではなく、ただ「音、音」と確認するのです。

食べている時も、ビフテキであろうとお蕎麦であろうと、またおいしかろうとまずかろうと、ただ「味わっている、味わっている」と、自分の状態を確認する。

苦味であろうが、甘みであろうが、そんなことはどうでもいいのです。
ただ「味わっている」という自分の状態を確認するのです。

いろいろな価値判断をしないで、事実だけに気づいていくのです。

価値判断をしないということが仏教の目的ではありません。
価値判断など必要なくなるほど高いレベルに行かないといけないのです。

すべてのものを高いレベルから見て、何ものにも捉われない自由な心で生きることが目的です。
すべてを超越した生き方です。

サティの無い人は、いいことには執着し、悪いことは忘れようとします。

「痛み」や「苦しみ」は錯覚である証拠

ですからサティの実践をすればするほど、ほんとうに幸福になることができます。

”サティ”すると心はこんなに楽になる

サティというエネルギーは訓練をすれば自然に出てきます。

こんなとき、こんな場合のヴィパッサナー瞑想法

ヴィパッサナー瞑想法は、ほんとうに大切なものは何かということを考え直す方法、物ごとを新しい角度で観る方法です。

ヴィパッサナー瞑想法を行う前提条件となる、サマタと呼ばれる瞑想法について少し説明しておきましょう。
日本で一般に瞑想というと、サマタ瞑想を指しています。
サマタとは、落ち着くということです。
サマタ瞑想法とは精神的に落ち着くための瞑想法、落ち着いた静かな心をつくる瞑想法です。

サマタ瞑想にはいろいろなやり方があります。
ヨガには体操とメディテーションヨガの2種類がありますが、どちらもサマタ瞑想です。
仏教にもいろいろなサマタ瞑想があります。ひとつ有名なのは、念仏です。

つまり心が落ち着いて深く統一されれば、どういう方法でもいいのです。
高いレベルの統一性、落ち着きが生まれることが大切で、自分にあった方法でいいのです。

心が落ち着くと脳にα波という脳波が出るのです。
β波が出ているときはいろいろよけいなことを考えているのです。

α波は出すためには集中力が必要です。
もしも医学的に研究され、α波がたくさん出る方法が見つかれば、その方法もサマタ修行法の一方法になります。

精神統一では心は落ち着かない

人はどうして落ち着きたいのかというと、心の落ち着いた状態ではいろいろなことがスムースにできるからと言います。

でも落ち着くということは、我々の最終的な目的ではありません。
落ち着いた心で何をするかということがもっとも重要なテーマです。
落ち着いているだけでは、何かをする心の基本ができたにすぎないということです。

私はサマタを否定しているのではありませんよ。
落ち着きがなければ何もできないのです。
ですからとても必要な修行です。サマタは何かをするために基本的に必要な条件となることは事実です。
そういう条件を整えて、それからいよいよヴィパッサナーの実践に入ることができるのです。

ヴィパッサナーとは「よく観る」という意味です。
「明確に区別して、詳しく観察すること」という意味になります。

サマタ法はすべて瞑想だという事ができますが、ヴィパッサナーはいわゆる瞑想ではありません。
ヴィパッサナーの代表的なやり方に、座禅や立ち禅などがありますが、それは禅をして自分を観察することです。
ヴィパッサナーは「よく観る」ことであって、心を落ち着けるための瞑想ではありません。
ですから、あらゆることがヴィパッサナーになります。

まず最初にルールがある

ヴィパッサナーの実践はどのようにするのか具体的にお話しします。


(本格的に出家して修行する以外の場合)
よく観る、きちんと確認するということだけを実践します。
よけいな解釈をつけ加えない。
ただよく観る、確認するということで止めておく。
解釈、意義づけ、意味づけ、ああではないかこうではないかといろいろ考えたりすることはまったくやらない。

ヴィパッサナーをする人は、一日三十分程度、何か心の統一の訓練をします。
さきほどお話ししたサマタ瞑想のことです。
心の統一、集中にはサマタが必要です。

何でもいいのです。そんなに暇もないでしょうし、三十分ほどすれば結構です。
どういうふうにするか具体的に書きますと、三十分ほどどこかに座って、きちんと呼吸をします。
吸ったり吐いたりするだけですから、難しいことは何もありません。
大げさに考えないこと。気楽にする方がいいのです。

三十分くらい静かに座って、何も考えないで「吸います、吐きます、吸います、吐きます」と呼吸してください。

『集中ヴィパッサナー瞑想法』について

(※サマタ瞑想は、ヴィパッサナー瞑想法を行う前提条件です)

ヴィパッサナー瞑想法には2種類の方法があります。
ひとつは集中的な実践法。
もうひとつは日常の中での実践法。
毎日ある一定の時間に集中ヴィパッサナー瞑想法をして、その残りの時間は日常的ヴィパッサナー瞑想法をします。

では集中ヴィパッサナー瞑想について説明します。
集中ヴィパッサナー瞑想とは、自分の行為をひとつひとつきちんと観て、頭のなかで言葉で自分の行為をひとつひとつきちんと確認することです。

集中ヴィパッサナー瞑想の方法は、4つに分けられます。
日本では行住座臥という分け方をしていますが、

行住座臥とは

行ー歩く瞑想
住ー立つ瞑想
座ー座る瞑想(座禅)
臥ー寝て行う瞑想

のことです。